特別インタビュー(4) 言葉の道しるべ:筥崎宮「敵國降伏」に込められた思い


 

筥崎宮 権宮司 田村邦明氏

筥崎宮 権宮司 田村邦明氏

「敵國降伏」の御宸筆は本宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。縦横約十八センチで、全部で三十七枚あり、「國」の他に国構えの中に「王」、「民」、楼門奉掲の原拠となった草書体の「武」の四種類が書かれています。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、三十七枚なのは当時、醍醐天皇が三十七歳であり、御本殿の基礎柱が三十四本、御神座三座を足して三十七で、その下に敵國降伏の言葉を納めて、国の鎮めとして神社を建てたとされています。因みに「王」が三十四枚、その他各一枚づつで計三十七枚です。醍醐天皇以後の天皇もこの言葉を納められた記録があり、特に文永十一年(西暦一二七四年)の蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた事跡は有名です。

   楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間(一五九四年)、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、三十七枚の神宝のうちのひとつを謹写拡大したものです。実は、今掲げられているのは二代目で初代は十年前に取り外され宝物館に納められています。

筥崎宮 宝物館に所蔵される初代の「敵國降伏」の額

筥崎宮 宝物館に所蔵される初代の「敵國降伏」の額

 

 「敵國降伏」の四文字にどのような意味が込められているかご存知でしょうか。一般には「日本に攻め寄せてくる敵国を降伏させよう」というお祈りのように思われているようです。実際に終戦間際の一九四五年四月にはそのような意味合いで普通切手(十銭)の図案となっているようですが…。

   文政元年(一八一八年)四月、幕末を代表する儒学者・頼山陽が福岡を訪れ、福岡の代表的儒学者・亀井昭陽の案内で筥崎宮に詣でた時のことです。そびえ立つ楼門に掲げられた「敵國降伏」の額をふり仰いだ山陽は、「これは『敵國降伏』ではなく、『降伏敵國』でなければ文の意味が通じないのではないでしょうか」と昭陽に問いかけたといいます。確かに、敵国を降伏させるという意味であれば、漢文の語法上「降伏敵國」と「降伏」が「敵國」の上に来なければなりません。

   それから五十年、時代は明治を迎えた頃、福岡が生んだ論客として全国に有名を轟かせた福本日南が代表的名著『筑前志』のなかで、山陽と昭陽のやりとりをとりあげ、山陽の疑問に答えるように「敵國降伏」の解釈を述べます。

  「『敵國降伏』と『降伏敵國』とは自他の別あり。敵國の降伏するは徳に由る、王者の業なり。敵國を降伏するは力に由る。覇者の事なり。『敵国降伏』而る後、初めて神威の赫赫、王者の蕩々を看る」

   つまり、「敵国が降伏する(敵國降伏)」という場合の降伏は自動詞で、敵国が我が国の優れた徳の力により、おのずからに靡き、統一されるという「王道」の表現。「敵国を降伏させる(降伏敵國)」での降伏とは他動的で武力で天下を統一するという覇道(覇者の道)の表現。「敵国降伏」とは日本の優れた国柄が示されていると述べたのです。

   この日南の解釈こそ、適確な解釈であり、このように理解して楼門の上の「敵國降伏」の扁額を仰ぐと、日本の国柄の凝縮した姿と、亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と祈願なされたと同様に、歴代の天皇様が一筋に貫かれたお祈りが込められていることを強く感じるのです。