特別インタビュー(3)無私の精神で道義的な国づくりを目指した頭山満という圧倒的な存在感


 

 

   玄洋社と頭山満を描いた好著『人ありて 頭山満と玄洋社』(共著)の著者である井川さんは、豪放磊落という世に伝えられてきた頭山像とは違った人物像を感じ取ったといいます。圧倒的な存在感でありながら「無色透明な人間」だった頭山と玄洋社が目指した もうひとつの日本 とは。

 ライフワークとの出会い

 

井川聡氏

井川聡氏
『人ありて 頭山満と玄洋社』 著者
1959年、宮崎県生まれ(本籍・福岡県)。

 平成十五年(二〇〇三年)に同僚の小林寛との共著『人ありて 頭山満と玄洋社』を出したのは、私が社会部の遊軍という何でも屋のような立場でいるときに、「頭山満の連載をやらないか」と上司に言われたのがきっかけです。頭山満についてはもちろん知っていましたが、いつかは詳しく調べたいと思っている程度でした。広田弘毅や中野正剛などは母校(修猷館)の先輩でもあり、話を聞いたり、本を読んだりしていましたが、頭山を知るための本などは戦後においては復刻版しかなく、戦後に書かれたものもありませんでした。また、戦前のいくつかの評伝なども決して読みやすいものではありませんでした。つまり、頭山の情報は巷に出回っていないという状況でした。ただ、私の場合は高校時代の国語の先生から「頭山満のようになれ」と言われていましたので興味があり、新聞記者としてもいつかは書きたいと思っていました。

   このような話が持ち上がったのは平成十二年(二〇〇〇年)頃のことで、ちょうど時代の大きな節目でした。私には「未来を夢見て」というより、「まず、足下の五十年前、百年前を見るべき。答えは歴史の中にあるはず」という想いがありました。しかも、郷土の福岡で新聞記者をやっているのですから、頭山満というテーマは天命のようなものだったと感じています。 玄洋社の母体の向陽社は向陽義塾という私塾を持っていて、外国のことや歴史を勉強していました。向陽義塾はその後、藤雲館となり、それが元になり中学修猷館ができましたので、私の母校・福岡県立修猷館高等学校のルーツはまさに玄洋社にあるといえます。このような繋がりからも頭山満を今に掘り起こすことは、私の一生の仕事になり得ると感じました。また、実際にそうなっていて、今も取材を続け、出版社からの依頼もあり、頭山満の伝記を執筆中です。この取り組みがうまく行けば、さらに、玄洋社の様々な人物伝を書いていけると思っています。玄洋社は頭山だけではなく、光の当たっていない、歴史に封印されてしまった人たちがたくさんいますからね。 『人ありて』は読売新聞での連載を書籍化したものです。連載は平成十三年(二〇〇一年)一月から翌年三月までの間に計九十一回、社会面で続けました。反響はあったと言えばあるし、無かったと言えば無かったという感じでした。どちらかと言うと、冷ややかな目で見られていたように思います。ただ、読者の方からは、たくさんの情報を寄せていただき、取材が広がりました。大変感謝しています。

 空、無私の精神

  頭山満の人物像としては、一般には豪放磊落というイメージがありますが、取材をするにつれ、全くの虚像だったことが分かりました。

『人ありて 頭山満と玄洋社』 井川聡・小林寛著 海鳥社

『人ありて 頭山満と玄洋社』
井川聡・小林寛著 海鳥社

 

 たくさんいるお孫さんや本人と面識のあった方の話を聞き、本人の映った八ミリフィルムなどを見ているうちに、『巨人頭山満翁』の藤本尚則や夢野久作が書いている人物像とは明らかに違うと確信しました。私の印象では、とても折り目正しく、言葉遣いも丁寧な紳士です。戦前に書かれた多くの本は、頭山に惚れ込んだ人間が書いたものですから、大きく見せようとしたのかもしれません。等身大では、少しつまらなかったのかもしれませんね。 福岡・筑前の人間は大らかな風土の影響もあり、「好きやす、飽きやす」です。東日本の人たちの持つ粘り強さや忍耐力には欠けるところがあると思います。実際、玄洋社にもそういった人が多いのですが、頭山満はまるきり逆で、考えて考えた末に行動して、こうと決めたらとことんやるという人で、決断までは熟慮の人でした。だからこそ、直情径行な同志たちをまとめることもできたのではないでしょうか。

 頭山はまた、自然と対話をする自然児でもありました。よく山にこもって、一人でじっくり考えていたりしています。それは少年時代からの習慣だったようです。自然の摂理というものを知っているからこそ、現実的な判断ができる。無闇矢鱈に猪突猛進するのではなく、タイミングを計ることの大切さを知っているのです。 私は、頭山満という人は、生まれたばかりの赤ちゃんのように純粋無垢で、無色透明な人間だと思っています。だから、見る人によって違って見える。赤にも白にも黒にも見える。見る人の想いがそのまま投影されてしまうからです。人物像がつかみにくいのは、西郷隆盛と同じです。二人の共通点は、自己主張というものがまったくないことです。全身が他者への思いやりで満たされている。接する人々はそこに吸い込まれていったのではないでしょうか。怒りはすべて公憤、行動はすべて、国のため。自分自身は、空で、無私の精神です。そして、ただひたすら、覇道ではなく王道、西洋近代とは異なる原理に基づく、道義的な国づくりをめざした。近代合理主義的考え方では理解しがたい人物であり、また、物質文明に支配された今日では、なかなか現れることのない人物といえるでしょう。

 

 日本の真の独立を目指す

 玄洋社は旧福岡藩士が中心となり創立されましたが、そこには見せしめによる福岡藩のお取り潰しという悲劇が背景にあり、士族である彼らの行き場がなくなったこと、明治維新に乗り遅れたということから活躍の場を求めたという側面があります。さらに、頭山満をはじめ彼らの多くが萩の乱に加担したとして西南戦争の時には獄舎にいて、西南戦争後に釈放されてから「もう一回やろう」となって、まさに遅れに遅れてやってきた人たちだという側面もあります。

中野正剛先生碑(福岡市中央区今川) 鳥飼八幡宮の境

中野正剛先生碑(福岡市中央区今川) 鳥飼八幡宮の境
内に立つ銅像。題字は緒方竹虎先生。

 玄洋社の始まりは自由民権運動です。獄舎から出てきて、自給自足の生活をしている時に、大久保利通が紀尾井坂で暗殺されたことを来島恒喜が頭山満に伝えます。頭山はくわを投げ捨てて走り出し、西郷隆盛とともに征韓論を説いていた土佐の板垣退助のもとを訪ねます。この時、「これからは武力ではなく、言論だ」と諭されて、福岡に自由民権運動を持ち込みました。その後、自由民権運動をやっていたけれど、政府に先手を打たれる形で帝国議会を開くことが決まり、運動は四分五裂となります。しかし、玄洋社は、他の民権団体と違って、幕藩時代に列強諸国と結んだ不平等条約の改正も大きなテーマとしていましたから、条約改正運動に軸足を移します。思想が変わったのではなく、周りの状況が変わっていったということです。  頭山満は「西郷の心、是れ天の心」というほどに西郷隆盛を崇拝していました。西郷は島津斉彬の直弟子で、島津斉彬はロシアや世界全体の動向を見渡していた人物です。玄洋社がこの世界的な広い視野をもった民権団体であったことは、他の民権団体にない特徴です。西郷は、未開蒙昧の国に残忍にふるまい、己を利するような国は野蛮であると厳しく批判し、弱肉強食から共生への文明の転換を希求してきました。玄洋社は、そういう西郷の遺訓をそのまま継いでいたのです。そう考えると、彼らの行動の説明がつきます。自由民権運動家の多くは、政府に入ったり、政党をつくったりして政治に加わっていきますが、玄洋社は、在野での活動を貫きました。政府に対しては、つねに是々非々です。私益や党利ではなく、筋を通した活動を続けたのは、「日本という船がどちらに傾いても元に戻す役割をするため」でした。 この言葉は広田弘毅が「どうして浪人のままでいるのですか」と問うた時の頭山満の答えとして残っています。義に従って動くために、浪人であることが必要だったのです。これは、「今、日本に必要なこと」をその時その時に選んでいたということです。失敗もあったと思います。ただ、これを評価するのは後知恵に過ぎません。土台にあったのは、西郷の遺訓に沿った「日本の真の独立を目指す」ということです。そのために声を上げ、議論をして、行動したのです。玄洋社は、民権から国権に転換したといわれていますが、私は、そうは思いません。例えて言えば、田んぼを耕すのが民権、外敵から田んぼを守るために闘うのが国権です。民権も国権もどちらも必要で、その時、どちらを優先するかというだけの話です。

 

    一人でも淋しくない 人間になれ

 玄洋社にどれくらいの社員がいたのかははっきりしていません。頭山満自身が社員として名簿に載っていない時期もあり、そういった意味ではカチッとした組織ではなかったようで、今の政治結社とは違ったイメージの組織です。深く関わっていた杉山茂丸が「自分は玄洋社の社員じゃない」と言っていますからね。民権団体としてやっていた時の玄洋社は九州の中心的なひとつの団体であり、条約改正の時にも大きな求心力を持った団体だったと思いますが、それ以降、団体としてのまとまった活動はなく、頭山という精神的支柱があるだけで、玄洋社=頭山満になっていたと思います。以後の特徴的な動きは、植民地支配からの独立をめざすアジア同胞の助太刀です。支援の手は、朝鮮、中国、フィリピン、インド、アフガニスタンにまで伸びています。アジアだけでなく、エチオピアなど有色人種全体の解放にも向かっていきました。

西郷隆盛

西郷隆盛

  政党があり、多数決で決まる今の世の中では分かりにくい感覚ですが、たった一人の人間が一対一でことを運んでいます。お互いに相通じるものがあれば、それが出来たのです。イデオロギーや思想を超えた理屈抜きの付き合いです。義理と人情の世界というか、とても日本的、アジア的な感覚です。そういう頭山を頼って、世界中から人が集まっていたのです。戦後、右翼の頭目のような捉え方をされてきましたが、これは単にGHQが玄洋社を国家主義団体と指定しただけのことです。団体として大東亜戦争にはなんら関与していませんし、むしろ、最後まで日中和平の試みを続けていたのが玄洋社でした。 先ほども申し上げたように、条約改正運動以降の玄洋社は政治結社ではなく、頭山満とその仲間たちという形になり、やっていることもバラバラになりました。ただ、それぞれの人物が自らの信ずる道を貫いています。GHQはその中心となっている頭山満を封印したかったのだと思います。それは、日本人そのものが目指してきた もうひとつの日本 がそこにあったからです。 もうひとつの日本 とは、西郷隆盛が目指していた精神的に日本人皆が武士になるような世界、国民一人ひとりが自立し、真に独立した日本ということになろうかと思います。明治新政府では西郷が下野して、急速な欧化政策が進みます。頭山は西郷の遺志を継いで、西郷の目指した もうひとつの日本 、本当の尊皇攘夷を求め続けたのだと思います。頭山満は折り目正しい人なのに、西南戦争の二年後、鹿児島の西郷家を訪れて西郷隆盛の愛読書を無断で持ち帰ったと資料にあります。頭山満はまだ素性の知れない二十四歳の青年でした。一年後に返却するまで、その本を肌身離さず持っていたといいます。西郷自筆の書き込みがある本を懐に抱いて、西郷精神を体内に取り込んだのでしょう。  頭山満は門下生たちに「一人でも淋しくない人間になれ」と言っていました。それは「自ら光を発するような人間になれ」ということだと解釈しています。人との付き合いも「自ら光を発している人間か」という基準があったように思います。孫文も金玉均も杉山茂丸も、皆そうでした。徒党を組んで何かをやるのではなく、自ら光を発し、「千万人といえども吾行かん」という人間が好きだったのです。これは武士道にもつながっています。武士というのは全人的な存在です。武士は一人ひとりが武士の精神を代表し、行動を代表しています。武士には、われ一人で国を背負うという覚悟があり、人間社会の歯車のひとつに堕するようなことはありません。そういう人間になれ、武士になれ、と頭山は言いたかったのでしょう。

 

     頭山満という存在感

 

玄洋社墓地の碑(福岡市博多区千代)

玄洋社墓地の碑(福岡市博多区千代)
「身を殺して仁を成す」

 頭山満は昭和十九年に亡くなり、葬儀には二万人が参列したと言われています。それだけたくさんの人が集まったのは、頭山が無色透明であり、見る人の写し鏡だったからで、自らをピカピカに磨いていたからだと思います。人間は悩んだ時に鏡に向かって自分自身に問いかけるものですが、頭山がそういった存在であり、会えば答えが見つかるから、人が集まってきたのではないでしょうか。ただ、頭山は、多くを語らず、結論のみを述べ、それも暗示的なものだったようです。本人も山に篭って熟慮することを繰り返していた人ですから、人もよく見て、洞察していたはずです。そんな頭山の人脈づくり、人づくりが玄洋社を豊富な人材を輩出する組織にしたのです。そして、ひとたび出会った人とは最後までとことん付き合い、決して人を使い捨てにはしませんでした。中江兆民も大井憲太郎も末期の水を取ったのは頭山です。 頭山満という人は知れば知るほど魅力的に見えてきます。まだ、調べ足りないことも多く、研究途中です。今書いている伝記は中学生にも分かる内容にしたいと思っていて、それでも難しいと思われるならば、もっと簡単に書きたいと思っています。多くの人、特に若い人に、頭山という人が、身近にいたということを知ってもらいたいからです。力の限り続けるつもりです。