特別インタビュー(1) 太古から幕末まで歴史の転換期を見守り続けた太宰府


 

  太古からわが国の外交・貿易の中心地だった太宰府が、幕末の動乱期の重要な舞台になったことは、意外に知られていません。日宋貿易、元寇、そして維新と歴史の転換期を見守ってきた太宰府の歴史の重要性を味酒 安則(みさけ やすのり)氏に語ってもらいました。

 

日本の外交・貿易発祥の地

 

味酒 安則(みさけ やすのり)氏

味酒 安則(みさけ やすのり)氏
太宰府天満宮禰宜・総務統括長兼文化研究所主管
昭和28年生まれ、菅原道真の門弟味酒安行の42代目の子孫。
太宰府天満宮総務部長の傍ら、福岡女子短大教授として博物館学を教える。
講演・出版活動も多数。

 福岡という地は非常に歴史が深く、幕末史上も重要なところなのですが、福岡の人々はある出来事がきっかけで歴史の話をしなくなりました。それが現代まで約百五十年間続いていて、地元の歴史を知らない人が増えてしまいました。福岡の人が福岡の歴史を知らないということは非常に残念なことです。

 さて、大和朝廷の成立に関しては諸説紛々ですが、奈良県の地名と福岡県の地名は共通点がたくさんあります。たとえば、福岡の三輪町(現・筑前町)と奈良県の大神神社、福岡の春日神社と奈良の春日大社、福岡の星野と奈良の南部の吉野、福岡の上山田・下山田と伊勢の宇治山田などかなり共通性があります。地名だけでも、福岡から東へ移動し、日本の歴史を切り開いたのは確実だと思います。

 福岡は菅原道真公がこちらに来られて、天神信仰の発祥の地になり、あるいは大宰府政庁が出来たことで海外貿易の拠点になりました。大宰府政庁の役割は、九州九カ国と三島を治めることと、防人などで防衛することでした。もう一つ、大事な役割として外交がありました。特に外交は大宰府政庁の特権でした。外国からの賓客をもてなす場が、筑紫館や鴻臚館、平成二十三年十二月に発見された大宰府の客館でした。当時の外交の三本柱は外国人が日本に移住する際に住む所を決める「帰化」、入国を承認する「藩客」、もてなす「饗宴」です。この中心が大宰府でした。福岡はこの頃より外国と上手に付き合う気風があるのです。その後、朝廷の力が弱くなり平安末期になって外交の特権は政庁から太宰府天満宮に移ります。その太宰府天満宮に海外貿易を学んだのが平家でした。平氏政権を支えていたのは太宰府天満宮だったという学説もあるくらいです。例えば平家が厳島神社に法華経を三十三巻奉納したのは有名ですが、その前に太宰府天満宮に千巻も奉納していることは意外に知られていません。 平家と大宰府の接点は、恐らく清盛の父・忠盛が太宰府天満宮の荘園があった肥前国神崎荘の預所になった頃だと思われます。博多の総鎮守・櫛田神社は忠盛が神崎にあったものを移したものです。その後、博多は日宋貿易の拠点として栄えていきます。そういう意味では、日本の外交・貿易の発祥の地は太宰府であり、福岡、博多港といえます。 たとえば、福岡の三輪町(現・筑前町)と奈良県の大神神社、福岡の春日神社と奈良の春日大社、福岡の星野と奈良の南部の吉野、福岡の上山田・下山田と伊勢の宇治山田などかなり共通性があります。地名だけでも、福岡から東へ移動し、日本の歴史を切り開いたのは確実だと思います。

 福岡は菅原道真公がこちらに来られて、天神信仰の発祥の地になり、あるいは大宰府政庁が出来たことで海外貿易の拠点になりました。大宰府政庁の役割は、九州九カ国と三島を治めることと、防人などで防衛することでした。もう一つ、大事な役割として外交がありました。特に外交は大宰府政庁の特権でした。外国からの賓客をもてなす場が、筑紫館や鴻臚館、平成二十三年十二月に発見された大宰府の客館でした。当時の外交の三本柱は外国人が日本に移住する際に住む所を決める「帰化」、入国を承認する「藩客」、もてなす「饗宴」です。この中心が大宰府でした。福岡はこの頃より外国と上手に付き合う気風があるのです。その後、朝廷の力が弱くなり平安末期になって外交の特権は政庁から太宰府天満宮に移ります。その太宰府天満宮に海外貿易を学んだのが平家でした。平氏政権を支えていたのは太宰府天満宮だったという学説もあるくらいです。例えば平家が厳島神社に法華経を三十三巻奉納したのは有名ですが、その前に太宰府天満宮に千巻も奉納していることは意外に知られていません。

 平家と大宰府の接点は、恐らく清盛の父・忠盛が太宰府天満宮の荘園があった肥前国神崎荘の預所になった頃だと思われます。博多の総鎮守・櫛田神社は忠盛が神崎にあったものを移したものです。その後、博多は日宋貿易の拠点として栄えていきます。そういう意味では、日本の外交・貿易の発祥の地は太宰府であり、福岡、博多港といえます。

元寇と太宰府の深い関わり

太宰府天満宮 五卿遺跡の碑

太宰府天満宮 三条実美ら五卿が送られた延寿王院(奥の建物)と五卿遺跡の碑

 元寇は文永の役と弘安の役と二回にわたって元が日本を襲ったものですが、この二つの役はまったく違ったものであることも意外に知られていません。清盛は貿易を重視して日本語が出来る中国人、つまり通訳を櫛田神社の周辺に住まわせました。あの謝国明はその代表的な存在です。この頃の博多は一大国際都市でした。二十三の大唐街(中華街)があり、櫛田神社を中心とした今の博多部には中国人(南宋人)が住んでいて、日本人の中心は、現在の福岡市西区の今津に住んでいました。

 最初の元寇である文永の役は、実はこの大唐街を壊滅させるのが目的だったのです。当時、元は中国をほぼ征服しましたが、南宋だけはなかなか降伏しません。フビライはその背後に海外にいる華僑、すなわち博多の南宋人たちの経済的支援があると見たわけです。一回目の元寇は日本を攻めようというものではなく、南宋を降伏させるためのものだったのです。  この時、元軍は今津に上陸し、西新、赤坂と攻め上り、大唐街を炎上させました。その勢いで筥崎宮も焼きました。そして支隊が大宰府を攻めに来ます。その時、政庁ができた頃に築かれた水城で進軍の足が止まりました。それで、騎馬は水城を乗り越えることができないことを知った幕府が博多の沿岸部に新たに築いたのが防塁です。その後、南宋は白旗を揚げることになるのですから、フビライの狙いは的中したことになります。

 二回目の元寇は、「棄兵」が目的でした。フビライは、降参した南宋の兵(江南軍)二十五万をそのまましておいたら反乱の火種になると、その兵力を日本に差し向けます。勝ったらそのまま日本で屯田兵として駐留させ、負ければ負けたでいいという、孫子の兵法から来ているものです。その証拠に元軍の船底には、牛、豚などの家畜を入れていました。勝てば彼らを日本に入植させようという狙いがあったのです。

 この時、防塁が効き目を発揮し、元軍は博多に入ることができず、鷹島沖で神風が吹き壊滅します。  足利尊氏が手勢二百で九州に落ち延びて来た時、大宰府に来て「あなたが必ず勝つ」というお告げの夢を見て、多々良川の合戦で菊池軍を破りました。その勢いで、太宰府で二万の軍勢を集めて東上し、湊川で楠木正成を破り、室町幕府を樹立します。ここでも福岡が重要なポイントになっています。

 秀吉も大宰府に来ています。その後、関が原の合戦でキャスティングボードを握ったのが、黒田長政でした。長政の調略で当初一週間くらいかかるだろうといわれていた戦が、わずか半日で終わりました。  このように日本史における北部九州、大宰府、福岡の役割はかなり大きかったと思います。ほとんど全て福岡を中心に歴史が動いてきたと言ってもいいのではないかというぐらいです。

「五卿落ち」など  幕末動乱期の舞台にも

 さて、黒田藩最後の当主である黒田長溥と幕末の話に移ります。

 長溥公は頭脳明晰だったのは言うまでもありませんが、それ以上に血統がすごい殿様でした。実父は「三田の下馬将軍」と呼ばれた進取的大大名だった薩摩藩主島津重豪です。養父の福岡藩主黒田斉清は、シーボルトと親交するほど好学のお殿様でした。島津重豪の娘で長溥の実姉の茂子は徳川十一代将軍家斉の正室、重豪のひ孫で十三代将軍家定の正室が篤姫です。長溥は重豪の九男で非常にかわいがられたそうで、重豪が目を患ったといって志免町の有名な目医者に三回も来ています。恐らく、長溥に会う口実でしょう。武家諸法度で外様大名が外様大名を訪ねるというのは、ご法度でした。ちなみに重豪はその際に大宰府に寄り、示現流の太刀を奉納しています。

 長溥の血統の良さは、島津家だけでも兄弟五人が藩主、女兄弟の十人が藩主の正室ということからもうかがい知れます。一橋家とも縁戚で、最後の将軍慶喜とも親戚でした。さらには公家の五摂家とも縁戚関係を持っていました。  こうした血筋の良さに加えて、父親譲りの豪快な指導力と蘭癖といわれるほど西洋の学問が好きで、藩内保守派の反対を押し切って領内で種痘を実施したり、コレラ対策の薬を無償で配布したりしました。また、オランダ医学を取り入れた医学校まで設立しました。領内で採れた石炭を製塩に利用しました。熱効率も飛躍的に向上し、それまで木炭を使っていたのですが、どうしても煤が入ってしまっていたのが、白い塩を作ることができました。この塩が大ヒットして売れるようになりました。このように長溥は進取性に富み、実行力も備えた名君でした。さらに開明派藩主として一人気を吐きます。ペリーの浦賀来航の際、開国して諸外国と貿易を行い、国を富ませるべきだと主張したのです。

 血筋をもって全国の大名を説得します。その国事周旋が功を奏し、その功で孝明天皇から金杯を授かりました。この他、後の第一次長州征伐では長州藩の説得に岩国藩を使い、不戦に持ち込みました。こうした長溥の活躍で福岡藩は勤皇派諸藩の中でも影響力を持ってきました。同時に長溥は加藤司書、月形洗蔵たち筑前勤皇党を育てます。当時、各藩とも佐幕派と尊皇派の両建てでした。それは時勢がどちらに転んでも立ち行くための知恵でした。

黒田長溥

黒田 長溥 (1811年〜1887年)福岡藩の第11代藩主。
西洋の技術を積極的に取り入れ、藩の近代化を推し進めた。

 しかし、福岡藩には特殊な事情がありました。

 福岡藩は六代当主から七代を除いて十二代当主の長溥まで全て養子でした。婿入りには数百名の家臣も随行入城します。そのため、藩主の絶対化や藩論の統一化が難しかったといわれます。それが幕末の福岡藩の悲劇につながります。

 長溥は尊皇派と幕府側の内乱を避けようと懸命に動きますが、その思いとは裏腹に、「八月十八日の政変」が起きます。長州藩と三条実美以下七卿が京より追放されます。第一次長州征伐の後、七卿は江戸に送られることになっていました。しかし、江戸送りになると、いきり立った幕府役人や新撰組の手が伸びるということで、長溥は征長大将軍の徳川慶勝に、五卿の九州各藩でのお預かりを願い出て、受け入れられ裁可されます。

 しかし、三条実美に五卿が離れ離れになることに大反対され、福岡藩でお預かりすることで決着、長州から福岡藩へ移った五卿は太宰府天満宮の延寿王院に入ります。長溥が五卿を大宰府に預けた背景には、藩内の佐幕派の暴走の懸念があったからです。佐幕派は五卿を「五人の囚(衆)」と呼んでいたのです。福岡城に預かれば何が起きるか分からないということで、大宰府でお預かりすることになったのです。

 この頃、筑前勤皇党は歴史の表舞台に立っていました。長溥の意を受けた加藤司書が第一次長州征伐に際して征長軍を解兵させることに成功したのです。この功により、司書は家老職に栄進することになります。

 これは私の想像ですが、五卿の受け入れを大宰府に決めたのは、長溥ではなく勤皇党だったのではないかと思います。勤皇党は力をつけて、独断で動き始めていました。月形洗蔵などは薩摩や長州などに足がかりを作っていくなど、長溥は自分が育ててきた勤皇党が自分の制御が効かなくなってきたと不快感を持ち始めたのではないでしょうか。黒田藩の重鎮が、長溥に勤皇による藩論の統一を申し出、その旗印を掲げいよいよ福岡藩では勤の旗印を掲げいよいよ福岡藩では勤皇党が実権を握ろうとしていた矢先、長溥は待ったをかけます。

時代を逆走した 福岡藩の悲劇

 こうして起きたのが、乙丑の変です。佐幕派が長溥に、司書が犬鳴山に建設した藩主の別館に長溥を幽閉して養子の長知を立てて、全九州の勤皇党を結集して挙兵する陰謀を企てていると注進します。ついに長溥は自分が育ててきた勤皇党を大粛清します。司書ら七名は切腹、月形洗蔵ら十四名を斬首刑、野村望東尼ら十六名を流刑に処しました。これは佐幕派の捏造であるというのが定説になっていますが、私は違うと思います。それはやはり長溥の血統の良さが災いしたのではないか。つまり、将軍家と縁戚でもある長溥は尊皇「反幕」になりきれず、尊皇「佐幕」の姿勢が勤皇党から嫌われていたのも事実だからです。佐幕派からも洋癖大名とまでいわれ、西洋的開国進取の姿勢が嫌われる有様は、長溥の出自の良さが災いしたとしか言いようがありません。

幕末略年表 皮肉にもこの乙丑の変のわずか一ヶ月前に、月形らの活躍により薩摩で奇策である「薩長同盟」が発案されました。それを坂本龍馬が、大宰府の五卿に許可と同意を求めて、大宰府を訪れていました。五卿の賛意が得られれば薩摩と対立していた長州も納得するだろうという龍馬のアイデアです。五卿の一人、東久世通禧の日記には、「土州藩坂本龍馬面会、偉人ナリ奇説家ナリ」と残しています。

 歴史を逆走し始めた福岡藩は、京で密かに結ばれた薩長同盟が成立した後に、五卿を取り戻しに大宰府を四千の兵で囲みます。福岡藩は時流を読み取れず、一気に佐幕の道を突き進んだことになります。

 そのわずか二年後に王政復古となり、情勢は逆転、佐幕派の粛清となって長溥は佐幕派中老に対して「切腹してくだされ候ふ様」と頼み込む始末になるわけです。福岡藩の優秀な人材は、乙丑の獄で司書ら尊皇派を、王政復古で佐幕派をと、そのリーダーを無くしてしまうことになります。

 戊辰戦争では福岡藩は勤皇の意を示さんと、多くの藩兵を送り出し、奮戦します。しかし、このために財政が逼迫し三百万両という莫大な借金を抱えることになります。この頃、財政難に陥った多くの藩は太政官札の偽造で切り抜けていて、福岡藩でも城内で贋札を始めました。

 戦争後、明治政府はその取締りに乗り出しました。多くの藩が贋札つくりに手を染めていたのは、新政府も分かっていたと思いますが、どこかの藩をスケープゴートとして挙げなければ示しがつきません。そこで目を付けられたのは、五卿を大勢の兵で取り囲み、勤皇派を粛清した福岡藩でした。その結果、家督を継いで知藩事になっていた長知は免職になり、隠居していた長溥とともに東京へ召し戻し、閉門蟄居に処されます。これはすなわち「お取り潰し」です。廃藩置県のわずか数ヶ月前、最後のお取り潰しが福岡藩だったのです。

 この一件により、福岡藩の領民は「維新のことには触れまい、殿様に非礼になる」といって、この時代のことには口を噤むことになります。それが百年も経つと本当に歴史がわからなくなってしまった。

 明治維新という最初のバスに乗ったのは黒田藩、ハンドルを握ったのは黒田長溥、それが途中で降ろされたのも黒田長溥。明治維新の三分の二は黒田長溥なのです。