ご皇室と和歌


 

夢・大アジア 理事 井野口 武志

夢・大アジア      理事 井野口 武志

 

 第一回定例会 / 平成二十四年九月二十九日

 於・福岡市中央市民センター 開催

  「ご皇室と和歌」みんなで宮中歌会始に詠進歌を提出しよう!

   講師:井野口 武志 (当会理事・事務局長)

   参加人数 12名

 

 

 

 

和歌とは

 宮中歌会始は正式には宮中歌御会始と言います。毎月、宮中で歌御会がありますが、一月に行われるものが歌御会始です。明治天皇の思し召しで、明治十二年からこの宮中歌御会始だけ国民からの応募を受け付け始めました。毎年だいたい三万首程の応募があるそうですが、天皇陛下は全てに目を通されるということです。この宮中歌御会始に応募することは国民として、とても意味のあることだと思います。

  さて、それでは和歌の話に入りたいと思います。

  皆さんは「和歌」の反対の言葉をご存知でしょうか。 これは私の独断ですが、「漢詩」だと思っています。和歌は奈良時代から平安時代にかけて現在の形ができてきましたが、当時は大陸からの渡来人が人口の一割を占めていましたし、日本語を表現する文体が確立されていませんでしたので、公文書は漢文でした。ですから当時の知識人が詩を詠むと言った時には漢詩を詠んだのです。それとは別に古来より日常の中で、お祭りや嬉しいことがあった時などに日常の言葉を節に乗せて歌っていた歌謡といわれるものがありました。細かい心の機微は、外国語である漢文では表現できませんでしたので、仮名の表現が確立するとともに和歌という形式に落ち着いてきたようです。

 

 

ご皇室の「敷島の道」

  日本最古とされる須佐能乎命の和歌をご紹介します。須佐能乎命が高天原で悪さをして、地上に追いやられ、放浪の果てにやっとの思いで出雲に落ち着き、奥さんをもらったときに詠んだ歌です。

 

   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に

   八重垣作る その八重垣を

 

出雲の空にある群雲のように幾重にも塀を作って、大事な妻が住まう新居をつくったことだよ、という新婚の嬉しさを表現した歌です。少し難解なようですが、何度も声に出して詠むと弾むような気持ちの伝わってくる歌ですね。

 

宮中歌会始

宮中歌会始

  本日は和歌をつくるというお話をしますが、和歌をつくることは、自分の気持ちを見つめ直す自己鍛錬になります。このような意味で歴代の天皇方は和歌を「敷島の道」と呼んで重んじられてきました。敷島とは大和国や日本のことを意味します。自分の感情を言葉で表現することで、その経験の意味が分かったり、自分の思いを発見したりするものです。和歌を詠むことでそういったことを考えられるということです。

 この敷島の道(和歌)の鍛錬に勤しまれたので有名なのが明治天皇です。生涯で九万三千首の和歌を詠まれました。明治神宮にお参りすると社頭などにも掲げてあり、皆さんもご存知かもしれませんが、お父上に当たる孝明天皇のことはあまり知られていません。今日は孝明天皇の話をします。

 

 

孝明天皇のお祈り

 

 孝明天皇は、明治維新の直前まで在位されました。明治・大正・昭和の三つの時代に亘るジャーナリストで思想家、歴史家、評論家である徳富蘇峰は、「維新の大業を立派に完成されたその力は、薩摩でもない、長州でもない、またその他の志士でもない。恐れ多くも明治天皇の父君にあらせられる孝明天皇である」と言いきっています。私も、これを最初に読んだ時にはピンと来なかったのですが、孝明天皇のことを知るにつれ、私もそのように思うようになりました。

第121代天皇 孝明天皇(1831〜1867)

第121代天皇 孝明天皇(1831〜1867

 孝明天皇は第百二十一代天皇で、祖父にあたる第百十九代光格天皇は傍系であった閑院宮家出身です。閑院宮家は和歌を大変重視されるお家柄だったそうで、次代の仁孝天皇、孝明天皇と続くのですが、孝明天皇は明治天皇に一日に五首の和歌を詠むように仰っていたというお話もあります。まずは孝明天皇が御在位の時代についてお話しします。 孝明天皇が即位されたのが一八四六年で、ペリー来航の七年前です。それ以前から、日本近海には外国船が出没する時代になっていて、一八〇八年に長崎でフェートン号事件が起こっています。当時、長崎にはオランダ船しか入ることはできませんでしたが、イギリス軍艦がオランダの国旗を掲げて長崎港に入港すると、突然、国旗を翻し、オランダ人を攫って逃げ去ろうとした事件です。

 江戸幕府の当時の制度としては長崎を防護するために緊急時には千人が集まるという体制がありました。しかしその制度自体が二百年も前にできたもので、完全な制度疲労を起こしている状態でした。混乱の末五十人しか集まれず、長崎奉行が切腹するという結末になりました。

 

 度重なる外国の圧力に国の仕組みそのものが対応できなくなっているのは誰の目にも明らかでした。更には孝明天皇が即位される十年前には天保の大飢饉があり、民の暮らしも疲弊していました。この時代は二宮尊徳が活躍した時代でもあったのですが、農村の民は都市部に流れ、農村は荒れ放題で、年貢の収入がなくなったことで、幕府の財政も厳しい状態になっていました。

 一八四〇年にはアヘン戦争が起こります。孝明天皇は大変な危機感を持たれます。吉田松陰などもそうですが、「日本が外国に侵略されるのではないか」という危機感です。即位されて翌年には、石清水八幡宮の臨時祭を再興させますが、これは元寇の際の亀山上皇の例に倣ったもので、国難に際して祈りを捧げるための臨時祭です。そのような時代にあって、ペリー来航が起こるのです。 孝明天皇はお悩みになります。当時は幕府も何をして良いのか分からない状態で、日本国中が混乱していました。ここで孝明天皇の御製をご紹介します。

 

 朝夕に 民やすかれと 思ふ身の

 心にかかる 異国の船

 

朝夕に国民が健やかに暮らして欲しいとお祈りをしているけれども、異国の船のことが気にかかって不安でたまらない、というようなお歌でしょうか。

孝明天皇が攘夷祈願の為行幸された石清水八幡宮

孝明天皇が攘夷祈願の為行幸された
石清水八幡宮
(京都府八幡市)

 孝明天皇は、大河ドラマなどでは異国嫌いの頑迷な攘夷論者のように扱われていることが多いのですが、実際には当時の国際情勢も冷静に分析されていました。当時はアヘン戦争では清が負けて酷い目に遭っていますし、一八五七年にはムガル帝国が滅亡しています。後年に孝明天皇の御言葉を綴った「御述懐一帖」という文献には「インドの覆轍を踏まば」という御言葉もあります。

 孝明天皇が苦慮されていたのは、外国が日本に開国を迫ってきた時に、なし崩し的に外国の言うままに条約を許し、港を開けてしまうということです。現在の尖閣諸島問題と同じですね。日本政府は先手を打たれてあたふたしています。当時の幕府も同じだったということです。「このまま開国をすれば大変なことになる。まずは攘夷をして、日本の独立を保たなければ」といったお考えが孝明天皇の中にあったのだと思います。

  一八五八年、幕府が日米修好通商条約の調印について孝明天皇に勅許を得ようとします。二月の時点で孝明天皇はお許しになっていないのですが、六月には日米修好通商条約を幕府が勝手に結んでしまいます。

 国民はこれに対して、怒りをあらわにします。その弾圧として行われたのがいわゆる安政の大獄です。しかし、桜田門外の変、坂下門外の変などが起きて、幕府の力が衰えていきます。このエネルギーの背景には、「孝明天皇が条約はならんと仰った」という思いがあったからだと思います。 国民は孝明天皇の思いを知っていたのでしょうか。ここで孝明天皇の御製を紹介します。

 

 鉾とりて 守れ宮人九重の

 みはしの櫻 風そよぐなり 

 

 

紫宸殿(京都御所)右に位置する左近の桜

紫宸殿(京都御所)右に位置する左近の桜

九重のみはしの櫻とは、皇居の紫宸殿前の階段の左にある桜のことで、ざわざわと風がそよいでいるのは朝廷に大変不穏な雰囲気があるということ。そのような孝明天皇の思いは当時の国民に敏感に伝わっていました。

  尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵は、

 

 いざ子供 馬に鞍おけ 九重の

 御階の桜 散らぬそのまに

 

と詠んでいます。二つの歌を比べていただければわかるように、宮部鼎蔵には先に紹介した孝明天皇の歌が伝わっていて、その歌を心にもって活動していたということが見て取れますね。このような歌が他にもたくさんあります。

 福岡藩士の平野国臣は、

 

 澄ましえぬ 水にわが身は 沈むとも

 にごしはせじな よろづ国民

 

という孝明天皇の御製を知り、

 

 かくばかり 悩める君の 御心を

 休めまつれや 四方の国民

 

と詠んでいます。孝明天皇の、我が身は濁った水に沈むように苦しんでも国民には安らかであって欲しいとの御製に対して、国民が孝明天皇に安心していただけるような働きをしなければと和歌で応じています。孝明天皇と幕末の志士は物理的な距離は離れています。しかし、志士たちが和歌を通して孝明天皇の思いを汲み取ろうとしていたことに、大変素晴らしい日本の国柄を感じます。

 

   「自分の身は どうなってもいい」お気持ち

  今回、天皇陛下の御製を紹介したのは、御製を詠まなければわからない世界があると思っているからです。昭和天皇が「自分の身はどうなってもいい」とマッカーサーにおっしゃられたという話はエピソードとしては有名ですが、昭和天皇の終戦時のお気持ちを御製を通じて拝するのとでは伝わるものが違います。昭和天皇の御製も紹介したいと思います。

 

 爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ

 いくさとめけり身はいかならむとも

 

 身はいかに なるともいくさ とどめけり

 ただたふれゆく 民をおもひて

 

これは昭和天皇が終戦を決意された時にお詠みになった御製です。この歌を皆さんはどう思われるでしょうか。「身はいかならむとも」は大変な字余りですが、かえって強いお気持ちが伝わってくるようです。その後の連作の二首目の御製も、重ねて「身はいかになるとも」とお詠みになられており、この御製を声に出して詠むと昭和天皇の終戦にあたっての強いご決意が感じられて来るようです。歌とは祈りにも似たものがあるといわれますが、そのようなものをこの御製から感じていただければ幸いです。

  昭和二十一年には終戦の混乱もあり、宮中歌御会始はなく、御製のみの発表でしたが、その時の御製をご紹介します。

 

 降り積もる 深雪に耐へて 色変へぬ

 松ぞ雄々しき 人もかくあれ

 

    松は強く根を張り、一年中青々とした葉を付けていて、深い雪にも耐えるその姿が力強く、国民にもこの松の様にいて欲しいという歌です。やはり、御製とは国民に対するメッセージだと思わされる歌であり、勇気づけられるお歌です。

  昨年の宮中歌御会始での今上陛下の御製を紹介します。お題は「岸」です。

 

 津波来し 時の岸辺は  如何なりしと

 見下ろす海は   青く静まる

 

これはヘリコプターから被災地をご覧になった時の御製だそうです。また、皇后陛下は   帰り来るを 立ちて待てるに 季のなく 岸とふ文字を 歳時記に見ず   と詠まれています。歳時記をご覧になった時に岸という文字に季節がないことに改めてお気づきになり、果てしないときの流れのなかで帰り来ぬ人を待つ被災者の苦悩に思いを致されたお歌ではないでしょうか。

 両陛下とも、東日本大震災の被災地に思いを寄せてお詠みになった御歌ですね。昨年三月に東北が大震災に見舞われてより、御歌会始までの約十ヶ月間両陛下のご心痛は如何ばかりであったでしょうか。計画停電で騒がれていた際には、ご自身も自主停電をされていたそうですが、私たちの気づかないところでも常に国民に思いを致されているのが皇室のご存在であると改めて感じました。

  平成の御代になってから、島原の普賢岳の噴火や阪神淡路大震災、またその他数え切れないほど災害が起こりましたが、両陛下

東日本大震災をお見舞いになる天皇皇后両陛下

東日本大震災をお見舞いになる天皇皇后両陛下

はその度に被災地に行幸啓され、直接膝を突き合わせるようにして被災地の方々の話に耳を傾けてこられました。両陛下は、他の誰よりも深く被災地の方々の苦しみを知ろうとなさっているのだと思います。そして、被災地の方々にとって、自分たちの苦しみに心を寄せてくださった両陛下のお姿が何よりの励ましになっているのです。

  今日お話してきたテーマを私なりに整理してみますと「相聞」というひとつの言葉で表すことができると思います。万葉集で「相聞歌」といえば一般的には恋の歌のことですが、本質的には和歌を詠み交わすことを通じて、お互いの心を深く億念しあうということだと思います。今日は拙い話でしたが、孝明天皇をはじめ歴代天皇の御製を通じて、皇室の和歌の伝統は国民との「相聞」であるということがお伝えできていれば幸いです。そして、その伝統が今なお営々と続いており、私たちも歌会始という行事の中で参加することができるということに深い意味があるのだと思います。